こんにちは。ワークイズ代表の桑原 祐介です。
僕が子供の頃、幼稚園の給食を残すことは許されないことでした。
みんなが帰る支度を始めても、並んで教室を出て、今まさに帰ろうとしていても、給食は全部食べきらなければなりません。
僕も、遠い記憶の中に、どうしても食べられなくて1人教室に残された思い出があります。
もちろん、僕だけではありません。泣きながら給食と向き合っている子を見ていた記憶も、残っています。
小学校の頃の給食は、1ヶ月分の献立がプリントになって配付されました。
当時、僕は給食の「ごまあえ」が大嫌いでした。
べしゃっとした冷たいホウレンソウ、そしてガリッと硬いままのニンジン……
作ってくれた人には申し訳ないのですが、本当に苦手で、吐いてしまいそうなほどでした。
だから、献立が配られると、真っ先にチェックしたのは「今月は「ごまあえ」が出るか、否か?」
僕にとっては、好物のチェックよりも「ごまあえ」の方が重大なことだったんです。
「ごまあえ」が出る日は、正直、仮病でも使って休みたいくらい嫌でした。
でも、学校に行けば、「ごまあえ」を残すことは許されません。
涙をこらえて、必死に飲み込んだのを今でも覚えています。
今は、学校でも幼稚園でもそんなことはさせないでしょう。
すれば、親から苦情が来るでしょうから。
でも、「どんなに嫌なことでも逃げ場はない。これを食べなければ帰してもらえない」という「背水の陣」みたいな覚悟は、そのおかげで持つことができたような気がするんです。
「ごまあえ」問題は、小学生の僕には本当に大きな悩みでした。仮病で休みたい、ティッシュにくるんでこっそりゴミ箱に捨てたい……いろんな逃げ方を考えましたが、やはり逃げられず、腹をくくらざるを得なかった。でも、それはもしかしたら人生で最初の「逃げることは許されない」現実を学ぶ場だったのかもしれないと、今になって思うのです。
もし僕が「ごまあえ」を「嫌いなら食べなくてもいいよ」と言われていたら、どうなっていただろうか、と考えます。
きっと、大量の書類の山や、いつ終わるとも知れない残業に音を上げて、逃げ出すことばかり考えていたかもしれません。
もちろん、アレルギーのある子もいます。そういう子に無理に食べさせては絶対にいけませんが……
でも、「嫌いなものでも食べなければ帰れない」あの教育がなくなったことと、仕事がつらくなったらすぐ辞めてしまう、嫌なことがあるとすぐ無断で欠勤してしまう、そうした現状とは、なんだか関連があるような気がしてならないのです。
世の中って、不条理なところがたくさんあります。
そして、その不条理は、人と人の思いの違いや、人間同士がお互いを理解しあう限界に起因するものであるが故に、なくなることはないでしょう。
けれど、子供には不条理を強いることがどんどん減ってきています。「ごまあえ」が嫌いなら、もう食べなくてもいいし、中学校に行ったからといって強制的に坊主頭にされるわけでもないし、部活動の練習中に下級生だけ水を飲んではいけないという伝統もありません。
そして、社会に出ていきなり不条理にぶつかったり、これまでは逃げることのできた「逃げ出したいほどの現実」に直面したりします。
今までは逃げてこられたのです。向き合わずに済んだのです。誰かが何とかしてくれたのです。そう。「嫌だったらいいんだよ。やらなくても」と、誰かが言ってくれたんです。これまでは。
そう考えると、「すぐ辞めちゃう」新人も、「嫌なことがあると無断欠勤してしまう」若者も、もしかすると本人の責任ではなく、今の教育がそういう部分を避けてきてしまったことによって生まれてしまったのかもしれません。無論、今の教育下においても、そうではない新人・若者もたくさん育っているのですが、子供の頃からそういう経験をしていれば耐性ができた人たちも何割かはいたかもしれない、と思うと、僕は「ごまあえ」を食べさせられてよかったのかな、と思うのです。
posted by work-is at 01:12|
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